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信念に対する判断を停止するべきだ

セクストスは、あらゆる信念に対する判断を停止するべきだ、すなわちある信念について真であるとか偽であると判断することを控えるべきだと主張する。この立場はピュロン的懐疑論として知られている。セクストスによれば、この立場はアカデメイア的懐疑論、すなわち知識そのものを否定する立場とは一線を画すものである。セクストスは知識そのものの可能性を否定することはしない。真なる信念としてなにかを知ることは不可能だとするアカデメイア的懐疑論の立場をセクストスは批判するのである。その代わりにセクストスは、信念を放棄すること、すなわち何かを知ることができるかどうかという判断を停止することを提案する。判断停止することによってのみ、我々はアタラクシア(心の平安)を得ることができるのである。セクストスは、全ての事柄について判断停止をすることも不可能ではないと考えた。なぜなら我々はいかなる信念をも用いず、習慣に従って生きることもできるからである。
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セクストスは、我々の経験(例えば心情や感覚)に関する主張を肯定することはできると考える。すなわち、私はこう感じるとかこういうものを知覚する、という主張Xについて、「Xであるように思われる」と言うことは可能である、と言うのである。しかしながら、このように言うことはいかなる客観的知識も外在的実在も含意しない、と指摘する。というのは、私は「私が味わった蜂蜜は私にとって甘い」ということを知っているかもしれないが、これは主観的判断に過ぎず、蜂蜜そのものについてなにか知っているということにはならないからである。

以上のようにセクストス哲学を解釈する注釈家としてマイルス・バーニェット(Myles Burnyeat)やジョナサン・バーンズ(Jonathan Barnes)がいる。

それに対してマイケル・フレーデ(Michael Frede)は異なった解釈を提示している。彼によれば、理性や哲学や思弁によって辿り着いたのでない信念であれば、セクストスは認める、とされる。例えば、内容にかかわらず、懐疑論者の共同体において信念とされたものなどである。この解釈をとるならば、懐疑論者は神を信じたり、信じなかったり、美徳は善であると信じたりするだろうが、美徳が「本性的に」善であるからそう信じるわけではないのである。

『ピュロン主義哲学の概要』の定番となっている版は、出版業者のアンリ・エティエンヌ(Henry Estienne)が1562年にジュネーヴで出版したラテン語訳が付された版である。セクストスの『概要』は16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで広く読まれ、なかでもミシェル・ド・モンテーニュやデイヴィッド・ヒュームに深い影響を与えた。

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2009年05月29日 14:34に投稿されたエントリーのページです。

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